内田樹さんのブログ(「キャラ化する世界」)より、一部引用。「キャラは大事だけど、キャラだけが全てではない」という自戒の意味もこめて。

「キャラが立つ」ということを言い出したのは小池一夫である。
劇画の世界では小池以来ひさしく「キャラ」の立ち上げが最優先事項とされてきた。
キャラが立てば、ストーリーはあとからついてくる。
どういう「カラフル」なキャラを創造するか、そこにマンガ家の力量が現れる。
これはウラジミール・プロップ的物語構造の定型性から脱却するための、画期的なアイディアだったと私は思う。
きわだった「キャラ」は物語の定型的な流れを打ち破り、因習的な登場人物たちであれば、決して「言うはずのないこと」を語り、決して「するはずがないこと」を断行してしまう。
小池一夫が「キャラ」という言葉を言い出したときにめざしていたのは、そのような人物設定上の「法外さ」によって、マンガの世界に自由をもたらしきたすことだった。
と私は思う。
けれども、あらゆる創意は定型化する。
「キャラ」もまたたちまちのうちに定型に回収された。
キャラの派手さによって、ストーリーの定型性は隠蔽される。
キャラにさえ「新奇性」があれば、物語はどれほど古くさくても、黴臭くても、「新製品」として通用する。
そのようにして、「凡庸な物語の上を、わざとらしく新奇なキャラが走り回る」 という現在のマンガ状況の「ダークサイド」が形成されることになったのである。
この「キャラの斬新性によって、物語の定型性を隠蔽する」傾向は、そののちマンガを源流に、あらゆるジャンルに浸潤していった。
小説にも、音楽にも、演劇にも、そしてもちろん政治にも。